煉瓦がむすぶ横浜/川崎

はい、こんにちは。
きたる忘年会シーズンを前に、
今日もアンチエイジングに燃えている azul です。

今日は朝から青空が広がり、
日本大通りは写生をする人でいっぱい!

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読書の秋、食欲の秋、スポーツの秋、
そして私たちにとっては「講座めじろ押し」の秋。
秋が深まるとともに、あちこちから講座のご依頼をいただき、
毎日が慌しくなります。

先週は、川崎市市民ミュージアムの歴史講座に招かれ、
「日本近代の煉瓦生産と御幸煉瓦製造所」というテーマで、
話をしてきました。

なぜ横浜の私が川崎で?と思われるかもしれませんが、
じつは横浜の都市形成に関わりの深い煉瓦工場が、
現在の川崎市域にあったのです。

その煉瓦工場は、当初「横浜煉化製造会社」として出発し、
のちに経営者が代わって「御幸煉瓦製造所」となるのですが、
ここで製造された煉瓦が、都市化が進む明治中期~大正期の横浜で、
多くの建物に使用されていたことがわかっています。

その手がかりとなるのは、煉瓦に刻まれた刻印。
横浜の関内・山手地区で出土した煉瓦の刻印を調べていくと、
よく目にするのが、次のような刻印です。

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私たちはこの刻印を「分銅印」と呼んでいるのですが、
川崎市市民ミュージアムとの共同調査によって、
この煉瓦が上記の御幸煉瓦製造所でつくられたものだ、
ということがわかってきました。
(「御幸煉瓦製造所について」『川崎市市民ミュージアム 紀要』第20集)

それまでは、この刻印は東京にある工場のマークだとされていましたが、
創業者の御宅から、この刻印をもった焼き損じの煉瓦が大量に出土したことが、
判断の決め手となったのです。

御幸煉瓦でつくられた煉瓦は、多摩川を下って横浜まで運ばれ、
さまざまな煉瓦造建築に使われたと考えられます。
明治中期以降、横浜に赤煉瓦の街並みが広がっていく背景には、
こうした近郊の煉瓦工場の存在が不可欠だったのです。

一方で、私たちにはまだ謎が残されています。
川崎にあった御幸煉瓦製の煉瓦が、川崎や東京で使用されたという例が、
いまだ知られていないのです。
とはいえ、近年東京でも発掘調査で煉瓦が報告される機会が増えてきましたから、
ひょっとしたら、発見はこれからなのかもしれません。

上記の刻印を見かけたら、ぜひご一報を!

(azul)
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by tohatsu | 2010-11-27 15:41 | お出かけ | Trackback | Comments(0)  

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