戦時下の女学生

昭和戦前期フェリス女学生旧蔵資料紹介、その(5)。

当館が先日入手した昭和戦前期のフェリス女学生資料。
これまで紹介した資料は持ち主の百合子さんが2年(昭和13年度)・
3年生のときのものでした。

どういうわけか、百合子さんが4年・5年生のときの
授業関連資料は残念ながらまったくないのですが、
「おもかげ」と題された卒業アルバムが残されており、
百合子さんの名前を見出すことができました。
奥付がなく発行者・発行年月の記載はありませんが、
おそらく昭和17年3月のフェリスの卒業アルバムと思われます。
画像はそのなかの1頁ですが、卒業式の情景でしょうか。

e0164082_114033100.jpg



これはアルバムの最後の頁。
太平洋戦争の勃発を報じる新聞各紙をコラージュしています。
e0164082_15155037.jpg



この頁が暗示するように、
この頃、フェリスなど欧米との関係がある学校を取り巻く情勢は厳しいものと
なりつつありました。

昭和15年9月、基督教教育同盟会は学校長会議を開き、
・学校長は日本人であること
・学校経営主体は財団法人であること
・経済的に外国教会から補助を受けることなく独立すること
・興亜教育に対して具体的方策をたてること、
などを申し合わせます。
(『横浜市教育史』上巻、横浜市教育委員会、1976年)

この申し合わせに対応して、
フェリスは昭和15年9月に校長が宣教師のヘンリー・V・H・ステゲマンから
初の日本人校長・都留仙次に交替します。
そして、翌昭和16年3月にはアメリカ人宣教師の教員が、ステゲマンをのぞき全員帰国。
さらに3月31日付けで校名が「横浜山手女学院」と改称されたのです。
つまり、昭和17年3月卒業の百合子さんたちは
「横浜山手女学院」と改称後、第1回の卒業生ということなります。


太平洋戦争勃発後の昭和17年5月、
フェリス中等部の4・5年と高等部2年の学生は、
横須賀田浦海軍工廠に勤労動員させられます。
その後、動員計画は拡大し、
長津田の田奈部隊、森永食糧工場、池貝鉄工所などに
女学生が働きに出ることになりました。
(『フェリス女学院100年史』フェリス女学院、1970年)

e0164082_11405747.jpg

この資料はフェリスと同じく山手にある
横浜紅蘭女学校(現・横浜雙葉中学校・高等学校)に通っていた
女学生が、昭和20年に東京芝浦電気に勤労動員させられたときの
「社員証」です。
(当館所蔵、山本寿美氏寄贈)

昭和20年に東芝堀川町工場に動員された
鶴見高等女学校の学生の手記(「八千代会週番日誌」)
には勤労動員の具体的な様子が記されています。

 職場に着くと二千個もの真空管が待って居た。
 私達二人は少しでも次へ流れる様にと念じつつ
 交替にゲッターを飛ばして行った。
 時折、試験品が入ったりしましたが今日は案外少なかった。
 午後停電、其の後に機械の故障が出来、又側に積んである
 真空管の山は高くなってしまった。
 機械のなおった後も急いだが、今日の私達の作業線は
 ぐっと落ちてしまった。
 (昭和20年5月14日)

(『横浜の空襲と戦災2-市民生活編-』横浜市・横浜の空襲を記録する会編、1975年)

 このように昭和17年以降、女学生の学園生活はそれ以前とは変わって
 厳しいものとなっていき、昭和20年の終戦を迎えたのでした。
  
(吉)
 
[PR]

by tohatsu | 2012-07-25 11:42 | 調査余話 | Trackback | Comments(0)  

トラックバックURL : http://hamablo.exblog.jp/tb/18451371
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。

<< 夏祭りのご報告―その1- フェリスの卒業式 >>