カテゴリ:調査余話( 24 )

 

新発見資料・失われた装飾壁画

はい、こんにちは。
スマホを握りしめたまま寝落ちすることはあっても、
ポケモンにはまるで縁のないazul です。

さて、今回は新収資料のお話です。
7月3日の開港記念会館100周年プレイベントで講演させていただいたとき、
その一部をご紹介しましたが、開港記念会館の建設に関わった技師で、
その後、横浜市の建築課長を務めた山田七五郎の関係資料が、
このたび当館に寄贈されることになりました。

開港記念会館の設計者は福田重義と紹介されることが多いですが、
正確には、福田はデザインコンペで一等になった人物で、
その後の実施設計は横浜市がおこなっています。
(もちろん、デザインは福田案がベースになっていますが。)
その実務を担ったのが、長崎県から招聘された技師山田七五郎でした。

今回の資料は山田七五郎のご遺族から寄贈のお申し出があったものですが、
学生時代から長崎県技師時代をふくむ、多岐にわたる資料のなかに、
開港記念会館の装飾壁画に関する古写真がありました。

大正6年の創建時に洋画家和田英作によって描かれた装飾壁画は、
正面入口から入って右手の階段室に左右一対で飾られていましたが、
関東大震災で焼失し、現在、記念会館の2階ホールに架けられているのは、
震災後にサイズを縮小して描き直されたものです。

創建時の壁画制作に関する資料は非常に少ないので、
先だって、この装飾壁画をずっと追いかけて論文を書いておられる、
美術史がご専門の日本女子大学の手塚惠美子さんに資料を見ていただきました。

e0164082_14365081.jpg

やはり専門分野が違う方に資料を見ていただくと、
コメントのひとつひとつが自分には新鮮で、とても勉強になります。
絵画の制作過程や解釈など、参考になるお話がいろいろうかがえて、
あらためて資料への多様なアプローチの大切さを感じました。
手塚さん、ありがとうございました。

来年、開港記念会館は創建100周年を迎えますが、
これらの資料はきっとあらたな発見をもたらしてくれるでしょう。
公開まで今しばらくお待ちください。

(azul)
[PR]

by tohatsu | 2016-07-28 14:51 | 調査余話 | Trackback | Comments(0)  

歴史的公文書

はい、こんにちは。
連日のゲリラ豪雨はきっと私が絶好調な(何が?)せいに違いない、
と妙に自信満々のazul です。

明日から始まるユーラシア文化館の特別展を前に、
企画展「横浜・山下公園」の最後の話を。

山下公園の歴史について書かれた文献のなかでも、
田中祥夫先生の『ヨコハマ公園物語』(中公新書、2000年)は、
新しい資料にもとづいた話が数多く盛り込まれた必読書ですが、
同書のなかに横浜市所蔵の公文書が登場します。

震災復興公園として山下公園の新設が決定したあとも、
決して公園の造成工事がスムーズにすすんだわけではなく、
実際には、公園利用に反対する神奈川県の意見があったことが、
「横浜市山下公園埋立」と題された公文書から明らかになっています。

港湾の復興か、公園の新設か。
関東大震災で壊滅した都市横浜の再生のために、
港湾施設の拡充を何よりも最優先する考えはもちろん理解できます。
一方で、このときの行政の決断がなければ、
山下公園のような広大な臨海公園が誕生しなかったことも事実です。

歴史を解明する重要な手がかりである「史料」。
今回この公文書が、元横浜市港湾局の田中常義さんのご尽力により、
同局に保管されていることが判明し、展示でお借りすることができました。
横浜大空襲をまぬがれて伝えられてきた貴重な「史料」です。

e0164082_172261.jpg

今後、この文書は「歴史的公文書」として然るべき部署で保存されるとのこと。
展示前の調査では、他の先行研究で紹介されていた昭和40年代の公文書が、
すでに所管局に残されていないことも判明していたので、
文書1点であっても貴重な記録が後世に残されることになったのは、
本当に喜ばしいことです。

(azul)
[PR]

by tohatsu | 2016-07-15 17:04 | 調査余話 | Trackback | Comments(0)  

戦時下の女学生

昭和戦前期フェリス女学生旧蔵資料紹介、その(5)。

当館が先日入手した昭和戦前期のフェリス女学生資料。
これまで紹介した資料は持ち主の百合子さんが2年(昭和13年度)・
3年生のときのものでした。

どういうわけか、百合子さんが4年・5年生のときの
授業関連資料は残念ながらまったくないのですが、
「おもかげ」と題された卒業アルバムが残されており、
百合子さんの名前を見出すことができました。
奥付がなく発行者・発行年月の記載はありませんが、
おそらく昭和17年3月のフェリスの卒業アルバムと思われます。
画像はそのなかの1頁ですが、卒業式の情景でしょうか。

e0164082_114033100.jpg



これはアルバムの最後の頁。
太平洋戦争の勃発を報じる新聞各紙をコラージュしています。
e0164082_15155037.jpg



この頁が暗示するように、
この頃、フェリスなど欧米との関係がある学校を取り巻く情勢は厳しいものと
なりつつありました。

昭和15年9月、基督教教育同盟会は学校長会議を開き、
・学校長は日本人であること
・学校経営主体は財団法人であること
・経済的に外国教会から補助を受けることなく独立すること
・興亜教育に対して具体的方策をたてること、
などを申し合わせます。
(『横浜市教育史』上巻、横浜市教育委員会、1976年)

この申し合わせに対応して、
フェリスは昭和15年9月に校長が宣教師のヘンリー・V・H・ステゲマンから
初の日本人校長・都留仙次に交替します。
そして、翌昭和16年3月にはアメリカ人宣教師の教員が、ステゲマンをのぞき全員帰国。
さらに3月31日付けで校名が「横浜山手女学院」と改称されたのです。
つまり、昭和17年3月卒業の百合子さんたちは
「横浜山手女学院」と改称後、第1回の卒業生ということなります。


太平洋戦争勃発後の昭和17年5月、
フェリス中等部の4・5年と高等部2年の学生は、
横須賀田浦海軍工廠に勤労動員させられます。
その後、動員計画は拡大し、
長津田の田奈部隊、森永食糧工場、池貝鉄工所などに
女学生が働きに出ることになりました。
(『フェリス女学院100年史』フェリス女学院、1970年)

e0164082_11405747.jpg

この資料はフェリスと同じく山手にある
横浜紅蘭女学校(現・横浜雙葉中学校・高等学校)に通っていた
女学生が、昭和20年に東京芝浦電気に勤労動員させられたときの
「社員証」です。
(当館所蔵、山本寿美氏寄贈)

昭和20年に東芝堀川町工場に動員された
鶴見高等女学校の学生の手記(「八千代会週番日誌」)
には勤労動員の具体的な様子が記されています。

 職場に着くと二千個もの真空管が待って居た。
 私達二人は少しでも次へ流れる様にと念じつつ
 交替にゲッターを飛ばして行った。
 時折、試験品が入ったりしましたが今日は案外少なかった。
 午後停電、其の後に機械の故障が出来、又側に積んである
 真空管の山は高くなってしまった。
 機械のなおった後も急いだが、今日の私達の作業線は
 ぐっと落ちてしまった。
 (昭和20年5月14日)

(『横浜の空襲と戦災2-市民生活編-』横浜市・横浜の空襲を記録する会編、1975年)

 このように昭和17年以降、女学生の学園生活はそれ以前とは変わって
 厳しいものとなっていき、昭和20年の終戦を迎えたのでした。
  
(吉)
 
[PR]

by tohatsu | 2012-07-25 11:42 | 調査余話 | Trackback | Comments(0)  

フェリスの卒業式

昭和戦前期フェリス女学生旧蔵資料紹介、その(4)。

昭和12年4月にフェリス和英女学校に入学した女学生・百合子さん
がお持ちだった資料の紹介を続けます。

百合子さんが3年生の学年末、
昭和15年3月22日におこなわれた
第53回卒業式のプログラムが
資料のなかに含まれていました。
(フェリス中等部は5年制なので、百合子さんはまだ卒業しません)。

e0164082_974927.jpg

このプログラムによると、
この年の中等部(5年制)の卒業生は85名。
高等部英文科の卒業生は8名でした。
ちなみにフェリスの高等部には
「中等部ノ基礎ノ上ニ更ニ高等ナル学術及技芸ニ関スル学科目」
として家政科(1年制)と英文科(3年制)が置かれていました。
今の大学に相当する「高等教育機関」だったわけですが、
この卒業生の数からもわかるように、進学率は低いものでした。

一般に高等女学校の卒業後の進学先としては
女子高等師範学校や女子専門学校がありましたが、
戦前期を通して進学率は1%未満だった言われています。

さて、昭和15年の卒業式の式次第は、
国家(斉唱)・勅語奉答のあとにピアノ合奏、聖書朗読、祈祷などが
続き、そのあと卒業証書授与、精勤賞状授与がありました。
その後学校長の訓示のあと、ピアノ合奏をはさんで
神奈川県知事の告辞と横浜市長の祝辞が贈られました。
そして卒業生総代の答辞があり、
卒業生一同がグノー「うるはしき喜びのおとづれ」を合唱して、
父兄挨拶・校歌・敬礼で式を終えます。

e0164082_981829.jpg


『横浜グラフ』(当館蔵)は昭和9年の世相を写真と簡潔な記事できりとった
写真情報誌ですが、3月22日にフェリスの卒業式が報じられていました。
女学生が手に巻いて持っているのは卒業証書でしょうか。
この写真には下記のようなキャプションがつけられています。

「晴れの卒業式」

蛍雪の途にいそしむ幾歳。待ちに待たれたけふぞ晴れの卒業式だ。
 懐しき追憶を偲んで母校に訣れ、
 希望と光明にもゆる未来への輝かしい夢を描きつゝ
 街頭へと巣立つ雛鳥の群。彼女達のゆくてに栄へあれ!
 (写真は校門を出づる女学生)


『横浜グラフ』こちらで画像を全点閲覧できます(拡大機能つき)。
(吉)
[PR]

by tohatsu | 2012-07-24 09:11 | 調査余話 | Trackback | Comments(0)  

フェリス女学生の「ピアノ・レッスン」

昭和戦前期フェリス女学生旧蔵資料紹介、その(3)。

昭和12年にフェリス和英女学校に入学した百合子さん。
彼女が残した在学中の資料のなかには、
授業の課題として提出した作文も含まれており、
その内容から戦前期の女学生の日常生活を垣間見ることができます。

e0164082_1775294.jpg


この資料は「ピアノのレッスン」と題された400字詰め原稿用紙2枚半(1000字)
の作文で、百合子さんが3年生のときに提出したものです。

火曜日の放課後、お道具もかたずけないでピアノのレツスンにかけつける私だ。
今日も又、大急ぎでお部屋の前に来てこつこつとノツクしながら中をのぞくと、
ミス・スエットナムが目で「お入りなさい」をしていらつしやるのでそつと中に入つた。
中では未だ四年のMさんとHさんがドエットをしていらつしやる。

(中略)
ひき終ると先生は、英語で色々な事をおつしやってからMさんに、
「この曲は好きですか」とお聞きになる。


この作文の記述から、百合子さんは放課後に、
外国人の女性からピアノのレッスンを英語でうけていたことがわかります。

戦前期、授業以外に「稽古事」をしていた女学生は7割近くいたといい、
その代表的なものは、茶道、華道、ピアノでした。
とくにピアノはモダンで西洋化された新中間層の家庭の象徴として
人気が高かったと指摘されています。
(稲垣恭子『女学校と女学生』中公新書)

ことに、外国人教師からピアノのレッスンを受けるというあたりは、
山手(横浜)の土地柄を感じます。

ちなみに百合子さんのお父さんは現役の陸軍少佐ですので、
家庭環境としては「モダン」な雰囲気はなさそうなのですが、
娘としては当時流行していた「モダン」なライフスタイルに
憧れるところがあったのかもしれません。

◆追記
このピアノのレッスン、私はプライベートな「稽古事」と思っていましたが、
あるいは、学校の「課外授業」かもしれません。
百合子さんの資料群のなかに含まれる「捜真女学校学則」には

「規定以外ノ時間ニ於テ特ニ音楽又ハタイプライターノ教授ヲ望ム者ハ
左ノ授業料ヲ納ムベシ」


として

「一、ピアノ授業料
      一週一回 毎月 金 四円(約8000円)
        ピアノ使用料 毎月 金 二円(約4000円)」

と規定があります。

ちなみに、捜真の授業料は
第1学期(4月1日~8月31日) 20円
第2学期(9月1日~12月31日) 20円 
第3学期(1月1日~3月31日) 15円
年間合計55円ですので、
ピアノのレッスンの方が年間だと高い(72円)
ということになります。

(吉)
[PR]

by tohatsu | 2012-07-20 17:28 | 調査余話 | Trackback | Comments(0)  

昭和はじめ、フェリスの試験問題用紙

昭和戦前期フェリス女学生旧蔵の資料紹介、その(2)。

当館が最近入手したフェリスの女学生(百合子さん)
旧蔵資料の紹介を続けます。

百合子さんが入学した
「フヱリス和英女学校」(以下フェリスと略します)は
明治3年にミス・キダーが居留地39番に創設した
横浜を代表する女子教育機関です。
明治8年に現在の山手町178番地に校舎を移転させ、
校名を「アイザック・フェリス・セミナリー」と称します。

ところで、この「フェリス」、
皆さんはどのように発音しますか?

古いハマっ子は
「ふえりす」(「笛リス」と発音するのに近い)
というように「ふ」と「え」を分けて発音すると、
地元の人からうかがったことがあります。
もっとも、最近は近くにお住まいの方でも
普通に「フェリス」(Feリス)
と発音しているようですが…

さて、昭和12年4月にフェリスに入学した百合子さんは
ここで5年間の学園生活を送ることになります。
(フェリスは、もともと6年制でしたが、
昭和5年に「本科」を5年制に短縮して「中等部」としています)

当館の資料群には、主に2・3学年のときの試験問題・作文が
30点弱含まれていましたので、その一部を少しご紹介すると……

e0164082_16304572.jpg

これは3年のとき(ちなみに3年B組)の外国地理科の試験問題です。
右側には南米の白地図があり、

1 赤道 2 ボゴダ 3 リマ 4 リオデャネイロ 5 南回帰線
6 アスンシヨン 7 チチカカ湖 8 マゼラン海峡 9 ヴェネゼラ国 10 我国南米西岸航路終点
を記入せよ、という問題。
難しい……

さらに、
「パタゴニヤ沙漠の成因につきて」
「南米西部の都市の分布に就きその状態及び理由を説明せよ」
などの記述問題が続き、なかなか難問の様子。
第3学年の外国地理の授業は週に1回でしたが、
その割には地理の試験問題が資料群には多く残されています。

ちなみに、フェリスで最も多かった授業科目は英語で、各学年ごとに週6時間が割かれていました。
同じ時期の公立高等女学校では週3時間ですから、フェリスが英語教育に力を入れていたことが
うかがわれます。

(吉)
[PR]

by tohatsu | 2012-07-20 16:49 | 調査余話 | Trackback | Comments(0)  

昭和戦前期、フェリスの受験生

今日は午後から大雨ですね。
昨日・おとといとかなりの暑さだったので、少しほっとします。

さて当館は、昭和戦前期(12~17年)フェリス和英女学校に在学していた女学生が
旧蔵していた資料群を先月入手しました。

このなかには女学校の受験と学園生活をしのばせる資料(入試要項・試験問題・作文など)が
含まれていてなかなか貴重ですので、
このブログで速報的にご紹介したいと思います。

この資料の持ち主は女学生は保土ヶ谷区保土ヶ谷町にお住まいだった百合子さん。
保土ヶ谷尋常高等小学校時代には
秋の運動会の「百米徒競争」で一等賞をとるなど
活発な少女でした。

e0164082_14315758.jpg



昭和12年3月に尋常高等小学校
(6年制の尋常小学校に続く2年制の小学校)
を卒業する予定だった百合子さんは
女学校(高等女学校)の受験を考えていました。

尋常高等小学校卒業後の女子の進路としては、
・女子師範学校(教員養成)
・実業学校(職業・技術教育)
などがありましたが、
明治32年に制度化された高等女学校は
女子に対する一般普通教育を目的としており、なかなか人気がありました。
男子の「旧制中学校」に対応する中等教育機関にあたります。

明治38年の高等女学校への進学率は5%未満でしたが、
大正14年には15%、昭和15年には20%近くまで上昇、
大正から昭和初期にかけて急速に学生数を拡大させていきます。
在学期間は3~5年でしたので、今の中学・高校にあたるわけです。

e0164082_1436294.jpg

百合子さんは昭和11年の秋ごろから横浜の女学校の
学校案内を取り寄せて進学校の検討をしています。

上の画像は山手の共立女学校(現・横浜共立学園中学校・高校)
の「入学志願者心得」。
募集定員は80名。
考査方法は、「小学校調査書」「人物考査(口頭試問及び筆答試問)」
試験日は3月13日、合格発表は3月15日でした。

このほか、捜真女学校、横浜市立高等女学校、横浜女子青年学院、フェリス和英女学校の
入学案内が資料群のなかに残されています。

e0164082_14462349.jpg

さて、受験をひかえた百合子さんは「模擬試験」を受けようとします。
上の画像は、東京・神田の「初等教育会」なる団体が実施していた
模試のちらし。
「神奈川県中等学校入学試験新方針による模擬試験」
とあり、入試の「新方針」に対応していることをアピールしています。

模擬試験の日程は、
入試本番の約1ヶ月前の2月14日。
横浜では、桜木町駅近くの朝日講堂(朝日新聞社内)での
開催が予定されています。
受験費用は50銭(1000円程度)で、
試験の上位5名には「美術置時計・高級万年筆」を
贈呈するとあります。
昭和はじめは意外にも「お受験」が盛んだったのです。

e0164082_842511.jpg

受験勉強の甲斐あってか
百合子さんは無事フェリス(正確にはフヱリス和英女学校)に合格。
3月22日付けで合格通知をもらい、
入学金2円(4000円程度)を納めて
昭和12年4月から山手の女学校生活を開始します。

つづく……

(吉)
[PR]

by tohatsu | 2012-07-20 14:54 | 調査余話 | Trackback | Comments(2)  

66年前の横浜 その2 近づく大空襲

戦前に横浜中央電話局に交換手としてお勤めだった鶴見さんの
お手紙を続けます。

………………………………………………………………………………

東京空襲も度々有り、或る夜勤明けの日、
吉田橋を渡った右前方、
あんみつを食べた食堂あたりの建物の太い柱に、
綱を巻き付け数人の人達が無理やり建て物を壊している光景を見ました。
空襲に備え延焼を防ぐ為だと感じました。

又或る夜勤の休憩時
一人屋上に上り東京方面を見た時暗い夜空の一ヶ所だけ真っ赤に
染まって居たのを見て、あの炎の下で、逃げまどう人が居ると思うと
悲しかったです。

それから益々戦局が激しくなり、局での警報伝達も増し、
其の頃から、身の廻りから、食料、衣類、等生活用品すべてが
無くなっていきました。

そして昭和二十年五月二十八日(横浜空襲前夜)
私は夜勤の為午後四時に出勤し、
日勤者と交替し交換台に着きました。
そして空襲警報が入り、日付けが変り、二十九日明け方だったと思います。
一度部長さんの指示で地下一階に避難し
状況が良くなり又各自部署に戻り
午前八時日勤者と交替し、局を出た時は晴天でした。
警報は解除されて無かったと思います。

………………………………………………………………………………

e0164082_9525883.jpg

↑現在の当館の屋上から眺めた大さん橋方面。
ビルに阻まれて海はかすかに見えるだけですが、戦前はビルも低く横浜港が見晴らせました。
電話局にお勤めだった方はこの屋上を懐かしく記憶されています。

(吉)
[PR]

by tohatsu | 2011-12-23 09:29 | 調査余話 | Trackback | Comments(0)  

66年前の横浜 その1 戦前の伊勢ブラ

10月に発行された「ハマ発Newsletter」第16号に
「昭和はじめの横浜中央電話局」
と題して
昭和戦中期、当館の前身・横浜中央電話局に
交換手としてお勤めだった土屋節子さん
の証言を紹介しました。

ニュースレターが発行されたちょうど同じ時期(10月4日)、
土屋さんと同じく昭和16年から交換手として電話局にお勤めだった
鶴見すみ子さん(静岡県在住、昭和2年生れ)が、
横浜大空襲で疎開して以来、
66年ぶりに横浜を訪れ、当館にも立ち寄られました。

その折に往時のお話をいろいろ伺ったのですが、
その後、改めて戦中の思い出をつづった丁寧なお手紙をいただきました。

戦時中の横浜の雰囲気がよくわかるお話ですので、
鶴見さんのご許可を得て
ここにその一部を紹介したいと思います。

……………………………………………………………………………
 私の通勤手段は、主に京浜線(省線)東神奈川駅から桜木町駅下車。
 主に省線や六角橋行き市電を利用した。(中略)省線桜木町駅下車。
 駅前から市電で本町一丁目(県庁前)で下車。局へ。
 又は桜木町駅下車後、徒歩で弁天通りを通り横浜地方裁判所前を通り局へ。
 弁天通りを朝、通ると中間地点あたり
 で焼きたての美味そうなパンの匂いがした。
 ジャーマンベーカリだったでしょうか。

 夜勤明け、局を出た足で馬車道を通り、左手に松屋、吉田橋を渡り、
 右側の鈴屋?でよくあんみつを食べた。
 其の先には野沢屋、其の先には、真っ白い建物の寿百貨店等が。
 何を買うと云う目的も無いまゝ。何と無く・・・。伊勢ぶらだったと思います。

 又馬車道街路樹は柳で、夕暮れにはガス燈が灯り、独特な雰囲気が有つた様に思います。
 またホロ傘をさした、アイスクリーム屋さんや、人力車等も見かけた様に思います。

 でもそれから間も無く、戦争の気配が濃く成り、だんだんと身近に迫って居たのです。


〔続く〕

(吉)
[PR]

by tohatsu | 2011-12-09 15:48 | 調査余話 | Trackback | Comments(0)  

8月15日

毎年夏になると、わたしたちはあの戦争の記憶をメディアによって呼び覚まされます。
しかし、その戦争の時代の前に、あるいは戦争の時代と同時並行で、
日本の都市が「モダン」化していったことはあまり触れられることがありません。

9月18日から開催する「モダン横濱案内」では、
関東大震災後、急速に近代的な鉄筋コンクリート造りのビルディングがつくられ、
百貨店、ダンスホール、カフェーなどに興じた人々の様子をご紹介します。
そして、そのとき展示資料の中心となるのは、
1930年代のさまざまな資料なのです。

日本が軍国主義へ傾斜していったとされる1930年代、
戦争の足音が聞こえるととともに、人々は「モダン」化した街で
さまざまな娯楽を楽しんでいたのです。

もちろん悲惨な戦争の記憶も忘れられるべきではないのですが、
そのわずか前、あるいは同時にあった都市横浜の日常についても
私たちはもっと語り継いでもよいのではないか。

そんなことも考えながら、あと一ヶ月後にせまった展示準備をおこなっています。

(吉)
[PR]

by tohatsu | 2010-08-15 16:50 | 調査余話 | Trackback | Comments(0)